とまと星人

 

私はとまとが大好きだ。

熱狂しているわけではないが、とまとへの愛情はなかなかのものだ。愛していると言っていい。

 

私はとまとを愛している。

 

こういう話をしていたとき、ある人が私に聞いてきた。
「トマトの何が好きなの?食べるの?見るの?」
私は咄嗟に
「食べる方」と答えた。

 

私はそのときまで自分が一体とまとの何が好きなのかを考えたことがなかった。確かに私はトマトが大好物だ。「好きな食べ物は?」と聞かれたら「プチトマト!」と自信を持って答える程度には好きだ。しかし、それは核心ではない。いや、確かに私のとまと愛の源流は食べることにある。幼稚園に通っていた頃から私はプチトマトが大好物だった。あの頃はお皿の端、料理のすみっこにプチトマトが2,3個転がっているだけで大喜びしていた。っていうか今でも大喜びする。

しかし、それではプチトマトが好きというだけで私のとまと愛を説明したことにはならない。実際、私は普通のトマトとなるとそんなに好きじゃない。プチトマトを奥歯で噛み潰したときのあの食感が味わえないからだ。トマトとプチトマトの間には越えられない壁がある。トマト、あの握りこぶしくらいのトマトにそのままかぶりつくならまだイケる。しかし、一度一口大にスライスされてしまうともう駄目だ。モスバーガーに挟まっているようなペラペラの形にされてしまうともう絶望。あれは私の好きなとまとではない。ただの酸味のある赤い野菜。たかが脇役。所詮引き立て役。

ケチャップにもなろうものなら……ケチャップ!あれは一体何だ?私の好きなとまとから見ればあんなものは文字通り「赤の他人」だ。

 

このように私はトマトを食べることが好きなことに間違いはないが、それはあくまで限定的なもの。では、私はとまとの何が好きなのか。とまとの何が私を惹き付けるのか。

なぜ私はいつも鞄にトマトのキーホルダーを付けて出歩くのか。なぜ私はトマトのガチャガチャ(一回200円でリアルなトマトのキーホルダーが出てくる)を性懲りもなく10回も回したのか。なぜ私のPCのロック解除キーにはtomaの四文字が入っているのか。なぜモンハンの自分の名前がとまと(ちなみにアイルーの名前はプチトマト)なのか。なぜ「トマト星人」っていうキモかわいいキャラクター(下図参照)をデザインしたのか……。

 

あるとき、これは一種のコレクター気質なんじゃないかと考えたことがある。切手を集めたり、ご当地キティちゃんを収集したりするように、私はトマトを集めたがっている。確かにそれは間違いない。でもコレクターと言うほど熱心でもないし、そもそもトマトを集めたいわけじゃない。とまと愛の核心はここにもなかった。

じゃあ一体何なのか。私は考えた。その答えはずっと見つからなかったのだが、つい昨日、とうとうその答えを見つけた。そうか、

 

私はとまとの「心象」を愛していたのだ、と。

 

そう、心象。それは私がこのブログで何度か書いた「言葉の持つ言外のイメージ」を一言で言い換えたもの。いわばとまとの存在自体。

物心付く前から好きだったトマト。
あるときは「好きな食べ物は?」と尋ねられ「プチトマト」と答えた。
あるときはトマトのガチャガチャを見つけ何となくお金を投入した。
あるときはトマトをモチーフにしたキャラをデザインした。

始めは単なる好きな食べ物の一つだったのに、成長し、大人になり、色んな形のトマトと向き合っていく中で、私の心の中のトマトの心象はいつしか重層的に深まり、豊かになっていった。

そして気が付けばとまとという存在そのものが好きになっていたのだ……。

こういうものって結構誰にでもあるんじゃないかと思っている。

 

(注)

この記事では食べ物としてのトマトをカタカナで、心象の中のとまとは平仮名で表記しております。

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