飛翔する性【前編】

 蒸し暑い。シワだらけのシーツが重くべたつく。ため息を吐き出して額の汗をぬぐう。時計の文字盤は夜中の二時。布団に入ってからまだ二時間しか経っていない。少しうとうとしただろうか、確信が持てない。
 身体の中までベタつくようだ。胸の奥が少しずつ澱んで粘っこく重くなっていような、ミルクが煮詰まってバターになるように。


 『人間の感情も考えもみんな脳ミソが作ってるってのが常識になってるけど、この感情はどこにあるかって言われたらどう考えてもここじゃん?』
僕は自分の胸を指差していた。
『自分の中心はどこにあると思う?』
 いつもの甘い匂いがした。彼女の髪の。


 「痛て……」
お尻の上の皮膚が少しつっぱるような感じがして腰を浮かせた。昨晩刺青を入れた場所だ。緑の蜘蛛が腰の上で静かに足を伸ばしている。




 彫り師のお姉さんの細い骨のような腕が僕の尻を上から強く押さえた。青いマニキュアを塗った指が皮膚を少しだけ引っ張る。針は空気を刺すようにするりと僕の中に入ってきた。鋭い無機質な痛みが僕を刺す。強烈な痛み。
 僕は笑った。彼女も笑っていた。
「偉いねー、もっと痛がる人も多いわ」
「すっげー痛いっす」
「うん、分かるよ。私も初めて彫ったときはね、自分ってこんなに痛がりだったんだって、ビックリしたの」
ゾクゾクする。それが可笑しくて僕はまた笑う。僕はそっと目を閉じた。何か特別なときはいつもこうだ。




 高校生のとき、学校をサボって友だちと一緒に鯨の死体を見に行ったことがある。巨大なヒゲクジラが電車で三時間ほど行った海岸に打ち上げられているというのだ。その様子が撮影されてSNSに投稿されていた。僕はいてもたってもいられなかった。当時唯一いた友だちを無理に誘って僕は鯨の死体を拝みに出掛けた。

 道中、僕の頭の中は画面越しに見たその巨大な死体のことでいっぱいだった。写真の中の空には灰色の雲が低く垂れ込めていた。傷だらけの屍肉の塊が横たわっている。大きな白い腹は柔らかな曲線を描いてこちらを向いている。波が死体に寄せては小さく飛沫を上げる。黒い海がどこまでも広がっている。
……。

 結局死体は見れなかった。誰かが処分したのか、どこかに流されてしまったのか、今はもう分からない。だけど、それを夢想していたときのゾクゾクする感覚は覚えている。実際に死体が見れなくても僕にはそれで満足だった。
 その日休んだことは誰にも注意されなかった。先生にも、家族にも、クラスメートにも何も言われなかった。この気持ちは言葉にできるようなものじゃない。言葉にするとこの気持ちは多分劣化してしまうと、そんな風に考えていた。だから何も聞かれなくて好都合だった。変な言い訳も嘘も言わないで済む。自分の中だけにしまっておけば良い。

 「あの後友だちに昨日二人して休んでどうしたのって聞かれてさぁ。鯨の死体を見に行ったっつったらめっちゃビックリしてたわ。『へぇーお前らそんなことするんだ、意外』だって」
彼は嬉しそうにそう話した。

 『へぇーお前らそんなことするんだ、意外』

 似た言葉に僕は聞き覚えがあった。
「どうしたん」
彼に言われて自分が眉をしかめていることに気付いた。そして、いつの間に自分はこういう言葉が嫌いになってしまったのだろうかと思った。昔から人と違ったことをするのが好きだった。そういうつもりだったのに。




 「刺青、どんな柄にする?」
彼女が尋ねた。
「どんな柄が良いかな」
「そうねぇ、どんな柄が良いかなぁ、ワンポイントでしょ、ドクロとか十字架がカッコいいんじゃない」
骸骨や十字架が腰の上に乗るのを僕はイメージした。ふとリサの太股に彫られた蜘蛛を思い出した。足の長い蜘蛛がリサの太股に絡み付いている。
「リサはどうして蜘蛛にしたの?」
「何となくかなぁ、色々モチーフの候補はあったんだけどね、蜘蛛が一番キレイだったの」
今度は僕の身体の上を小さな蜘蛛が這った。
「花とかでも良かったんだけどね、でも蜘蛛が一番ゾクゾクしたの」
僕は笑った。
「そっか」




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