飛翔する性【後編】

 額の汗をぬぐって立ち上がった。どろりとした粘液をかぶったように身体がだるく胸の辺りが重苦しい。湿った前髪をかきあげる。窓の方を見るとすりガラス越しに車道の信号が黄色く点滅しているのが分かった。静かで、何もかもが沈黙している。

 洗面所に行って腰の辺りを鏡に写した。蜘蛛の上に緑色のかさぶたが薄くできていた。ごつごつしたいかつい衣をまとった蜘蛛が僕の腰に噛みついている。だがそれはまだ産み落とされたばかりの小さな蜘蛛だった。

 頭だけが妙に冴えていた。この蜘蛛には毒はあるのかしら。だとしたら僕はきっとその熱に浮かされていた。僕は思い立って外へとさまよいでた。理由は特に無かった。ただこの深夜の徘徊がどうしても必要な気がした。ニコチンの切れたヘビースモーカーの身体が煙草を求めるように。

 風が凪いでいた。ただ体温と同じ生ぬるい空気が歩くたびに頬を微かに撫でていく。空は黒い折り紙みたいだ。星も消えて黒の中に沈んでいる。人も車もない。世界から生命が消えてしまったと思った。街灯もガードレールも古いアパートも、みんなおもちゃみたいにぽつんと夜の中に佇んでいる。無人の町。忘れ去られた町。その中を僕だけが動いていた。すると一歩ごとに胸の奥の淀んだ何かが少しずつほぐれて身体から流れ出すのが分かった。振り返ればきっと、それが僕の通ってきた道を血のように濡らしているのが見えただろう。しかしそれもやがては蒸発して闇の中に還っていくのだ。

 ここには誰もいなかった。誰も今の僕を知りえない。誰も僕を気に止めることはできない。僕自身でさえそうだった。僕の中にはもはや僕を客観視する僕はいない。僕の視線はただ夜に向かっている。夜に向かう僕の肉体と、無尽蔵の夜。それが全てだ。

 僕は小さな公園のベンチに腰を下ろした。子蜘蛛の毒はみんな夜に洗い流された。胸のわだかまりも消えた。苦痛も疲労も全く無かった。感情も自意識もどこかに消えてしまった。そうすると僕の中には何もなかった。僕の身体は空っぽになった。

 夢を見ていた。

 見上げると空に大きな白い影が漂っていた。あのとき画面越しに見たヒゲクジラの亡骸だった。なんだ、こんなところにいたのか、どうりで見つからないわけだ。傷だらけの白い肌、滑らかな弧を描くつるりとした腹、不釣り合いなくらい大きな尾びれ、あの時画面に見たのとそっくり同じものが夜の闇の中を悠々と泳いでいた。鯨の死体は確かに泳いでいた。魂の抜け落ちた肉体は実際は死んでいるのだろうが、しかし生命の本質的な、一般に命と呼ばれているもの以外の何かが鯨を前へ前へと推し進めていた。それは生きているのと同じだった。

 僕は僕以外の何者かになりえるだろうかとよく考えた。僕は僕の内部のある部分に死を望んでいて、でも、それは僕が他人になりたいという意味ではなく、むしろ僕は初めから他者で、そいつの死によって僕は僕を取り戻すだろうと思っていた。彼は僕の中で疼いた。彼は触れられるのを待つ僕ではない僕だ。膨張して敏感になった性感帯だ。僕はときどきそいつを傷付けたくなる。そいつはナイフを突き立てられるのを待っている。レイプされ蹂躙されるのを待っている。そいつは死にうるか? 分からない。でもヒゲクジラの屍体がそれを体現してくれるはずではなかったか。手が届かなくとも約束されているはずのその地平に連れていってくれると、あの時そんな気がしたのではなかったか。僕は空に向かって手を伸ばした。鯨が闇に向かって泳いでいく。白い屍体が遠ざかっていく。

 本当は分かっていた。
そいつは死ぬことはない。僕は一生僕になることはない。そいつは傷付けられる度に膨張して増殖して、やがて僕の身体全体を飲み込み、そのうち僕の身体さえ飛び出して世界と溶け合うつもりだ。そうなってしまえば最早どこまでが自分なのかも見失ってしまうだろう。本当は分かっていた。でももう構いはしない。



 目を覚ますと公園のベンチに横になっていた。東の空が僅かに明るくなっている。そこに金星が1つ光っている。身震いした。体が芯から冷えきっていた。帰って熱いシャワーを浴びよう。そして日が出るまで布団にもぐって、もう一度眠ろう。





最初の話『飛翔する性【前編】』↓
http://tomaonarossi.hatenablog.com/entry/2019/03/10/044557

前の話『飛翔する性【中編】』↓
http://tomaonarossi.hatenablog.com/entry/2019/03/10/203212